昔から「過酷事故や大災害時には子供や妊婦・老人を優先して避難させる」その理由がわからなくいつも考えていた。しかしあるときにはっきりとわかった。
それはこのブログにも何回か出てきているある先生が、
「子供や妊婦・高齢者をはじめとする所謂弱者を優先する理由は、災害・事故から逃れる確率を出来るだけ成人男性等強者と同じくすること。つまり人の命は誰でも平等であるという考えからである」
を聞いたときであった。それまでは私の稚拙な考えでは、本能的に人集団を守るため、将来人口を増やせる可能性が高い確率がある人から逃がすことを咄嗟に行うからと思っていたが、高齢者を考えると何故かしっくりこなかった。確かに大脳が発達していない生物は本能が最優先されるであろうが、人は本能を律する理性があるのでなにか違うと思っていた。その時に「生存のチャンスができる限り平等になるように・・・」と聞いて腑に落ちた。これが理性のある生物の思考である。
この思考は建築の設計者、また人の生死や怪我に関わるような「物」「食品」をつくる生産者・設計者にもあてはまることだと思う。
建築設計を行うときそれは何のために行っているのか。当然建築主のオーダーがあったからである。つまり構造を第一優先するこの考えは、オーダーを出した建築主に対し「平等」を貫くその気持ちからおきる。
設計者は超人でもなければ当然聖人君子でもない。全ての要望を満たすことが出来ないため常に選択、選択、選択の連続でその設計作業を行い完成させる。この選択の時に、平等という考えがなければ間違った答えをだす可能性が高い。
デザインや機能性は設計者でなくとも建築主が住めば評価するし出来る。快適性の断熱気密性や省エネ性の電気代もそうだろう。つまり建築主も設計者と平等の立場でその分野では評価が出来る。しかし耐震性などの安全性や耐久性は、通常設計者しかわからない。耐震等級3といっても設計のさじ加減で最低の等級3か余裕のある等級3かは簡単に変えられる。そのような専門内容は一般の建築主では皆目見当もつかないので、評価できない。建築主でも評価できるときには(大地震時後)既に手遅れの状態となる。
もし設計中に同じ予算でここをこうするとデザイン的に良くなるが、耐久性が少し劣ることになるとの選択の時、デザインは建て主さんが見ればわかり評価できるが、耐久性は少し住んだくらいではわからないし、詳しく説明をしなければわからない。だから設計者の判断は、わからない人(建て主さん)とわかっている人が不平等にならないように、常に安全性(耐震性耐久性)をまず無意識にでも選択する思考が重要だと思う。もしデザインが安全性のせいでおかしく感じれば建て主さんは説明をしなくとも改善など要求できる。たぶんこのような思考回路が常に安全性が第一と言っている理由なのであろう。
このように語ると必ず「両方満たせばよい。その能力がないだけ」と言い切る意見がある。
実はこれには「立場の違い」があることを明確にする必要がある。私が安全が第一と言っているのはメーカー側(コストありきで物を造る側)に訴える立場での胸中である。一方ユーザー側に訴える立場で発言するなら、安全も品質もデザインも全て第一となる。私でも車を買うユーザー側になれば買おうとする車に全て満たしてほしいと考えるし、そのように訴えているメーカーの商品を予算内で買う・・・。つまりその発信は建築主を意識して発信しており、建築主と同じ考えであること強調し同意を得ようとしているのか、それともメーカーの矜持として語っているのかの差・・・である。
もし製造者の立場から「両方満たすせばよい」と本心から言っているなら今までの人生で心底悩んだ選択をしたことがないか、それとも本当に強い心根の人ではないかと思ってしまう。ほとんどの設計の場面では予算があるので2者択一を迫られることになり、その時に安全を選択をする。この心構えを日頃から訓練しておかなければ、私は平等でない選択をしてしまいそうである。心根の強い人には、「そんなことを日頃から訓練しなければならない人もいる」・・・と少し想像して頂ければ幸いである。
食品に置き換えればもっとわかりやすい。食品メーカーの製造者が予算内で第一に考えるのは、安全と衛生であり旨さではない。安全で衛生的だけれど味はそこそこの加工食品は市場にもあることを許されるが、特別美味しいけれど健康に影響がでるほど安価な保存料を大量に使っている食品が市場で許されるだろうか?食品メーカーの経営者としては多少表現が変わるかもしれないが、実務での製造者はあくまでも安全性が第一なのであるからその意味では私は経営者でなく製造者(設計者)なのだろう。
「それは極端な話だよ」と言われそうだが、メーカーの矜持はそうでなければ安心を消費者に与えることはできないはず。つまり安全と衛生は味とは違い一般消費者が評価ができないが、だからこそ間違いなく安全であろうという前提で味が成り立つことを意味している。
設計者はどうしても2者択一の場面がきたら、消費者には目に見えず評価できない安全性を選択することが、作り手と買い手が「平等」の評価が可能になり、初めて正当な立場となるのではないかと思う。