先週、菩提寺の屋根の修復について、檀家集の中から無作為の人選によって全体の10%の人を集めて説明と意見交換がありました。
お話し合いの中で「日本人の技術者に対する意識の薄さの弊害が出つつある」と考えさせられました。
菩提寺はよくある木造建築のお寺ではなく、23年前に鉄骨造として造られた3階建ての建物です。23年経って金属製の屋根に腐食がではじめたと言うことで、その修繕と対策が議論の中心でした。
その集まりに当時の設計者が来ているかと思えばお見えになっていない様子。話は屋根が平らだったので腐食が早かったとの事。そこで屋根の形を変える意見も出ましたが、「はて・・・設計者もいないのに何故そんな話が出るのやら・・・。屋根が平らなのは周囲に雪を落とせないためであり、勾配をつけたら雪止めやその他違う法律上の見直しが必要となるのに・・・」
檀家の代表が、「当時の設計会社を声を掛けたのにあまり良い返事ではなかったので、無理に来ていただなかった・・・。だから違う設計事務所にお声がけした」と雑談で言っていました。
意見はないかと全員に求められたので私は・・・
「何をするにも当時の設計者が重要。少しでも形が変わったり重さが変わったりすると、耐震性に影響の出る場合がある。先ず当時の設計者とよく話し合ってから勧めた方が良い。」
と意見しました。普通の人の感覚には薄いかもしれませんが、今回事故を起こした原発でも必ず「設計上の問題」とか「設計者へのヒアリング」が一番最初にありますが、施工上の問題はその次です。つまり設計がまずありきでその後施工になるのです。設計に問題があれば施工がいくら良くても形になりません。だから施工の前に大事なのは設計となるのです。しかし実際に形にするのは施工なので、多くの人は設計に価値を見いだそうとはしませんね。また設計は数々の条件や考えの集合体なので、当人しかわからない事もあります。だからまず当時の設計者に話を伺う必要があります。
戦前では、建物(家)には必ず棟梁がいて修繕の時でもその棟梁に相談するのが普通です。棟梁とは技術者であり、プロデューサーでもあり、その家の安全性(家はまず安全性に尽きる)に責任を持つ人です。最近は棟梁下での仕事はなくなり、工務店や建設会社がその仕事を行うようになりました。
棟梁は技術者であり設計者でもありますが、工務店、建設会社のトップはそうで無い場合が多いでしょう。やはり経営やマネジメントに時間を割いたり、時には技術者(建築士)でない場合もあるでしょう。この時に本来の日本人が持っていた真面目さ勤勉さが希薄なると大きな問題が起こるようです。
なぜなら技術者の殆どは「自分の行った仕事にはプライド」があります。だから技術者といわれるのですが、技術者でない人はその点が希薄です。ですので結局人のせいにすることができますし、その仕事に誇りが見受けられません。
さて多くの人が、23年しかたっていないのに(設計者は在命の可能性が高い年月)、当時の設計者をすっ飛ばしてお寺本堂を修繕する話し合いがある事にたいして何も変と思わないような日本人になってしまた気がします。
木造くらいなら自分で構造計画する。これは技術者として当たり前のことで、心底人のせいにしない単純な事。
日本人は高度成長後から簡単に責任の放棄を認め、自らも責任をとらない技術者レス民族になりつつあるよう風潮です。
私は技術者さんを尊敬しますし、自分も技術者と呼ばれたいと思っております。技術者とは昔の言葉で言えば「職人」でしょうか?ここで言う職人とはその技術つかって生産や企画で生計している人の事で、技術のない人は職人とは言われませんが、何故か今は体を使って仕事をする人全員を職人と呼んでいる傾向があり少し残念です。