以前このブログで紹介した孫崎享氏の「戦後史の正体」からこの孫崎さんのメルマガを読んでいます。そして送られて来たメルマガに・・・
とても心を引かれた引用がありました。この小説が100年以上前に書かれたという事実。驚いたという次元を超えて物凄い人がいたのだなーと呆れる気持ちになりました。
それは多くの人が一度は聞いた事がある夏目漱石の有名な小説『吾輩はねこである』です。
我が輩はネコであるの(苦沙弥先生と落雲館の生徒とのいざこざに関する哲学者先生の言葉として)
ここから引用================
中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそういう点になると西洋人より昔しの日本人の方が余程えらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的といって近頃大分流行るが、あれはおおいなる欠点を持っているよ。第一積極的といったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足という城とか完全という境にいけるものじゃない。向に檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。とその向うの下宿屋が邪魔になる。下宿屋を退却させると、その次の家が癪に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣り口はみんなこれさ。ナポ
レオンデモ、アレクサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩する。先方が閉口しない。法廷へ訴える、法廷で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦ったって方付く事があるものか、(省略)人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西欧の文明は積極的、進取的かもしれないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからずものという一大仮定の下に発達しているのだ。親子の関係が面白くないといって、欧州人の様にこの関係を改良して落ち付きをとろ
うとするのではない。親子の関係は在来のままで到底動かす事ができんものとして、その関係の下に安心を求むる手段を 講ずるにある。(省略)山があって隣国に行かれなければ、山を崩すという事を起す代わりに隣国へ行かんでもこまらないという工夫をする。山を越さなくても満足だという心持ちを養成するのだ。だから君見給え。禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中は到底意の如くなるものでない。落日を回らす事も、賀茂川を逆に流す事もできない。出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修行をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものでないか。」
引用終わり====================
心がまだフワフワしている中学の頃に「吾輩はネコである」を授業で知って、さわりだけ読み、それで知っている気になってしまっていた事を後悔するような、そんな一節です。
人や周囲は変えられない。変えられるのは自分の心だけ。これは生活、人生を幸福するための一番簡単で、誰にでもできる手段ですね。