定説を覆す。土縁はむしろ夏のためでは・・・。その3

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「て・こあ」にある土縁。玄関と一体になっており、夏でも紙障子を閉めると居住部まで暑さが伝わらない。

「て・こあ」の土縁はコンクリートの床とガラスの戸で覆われている。江戸時代にこんな材料があったか?

江戸時代にもガラスは存在する。しかも意外と町民でもガラスの容器も持っていた。

『金魚玉を持つ女』喜多川歌麿 画
江戸時代の町民は金魚を飼うときにガラス容器で持ってかえる事もあったらしい。

よってお金持ちならば小さなガラスの入った戸もあったと思われる。

このあたりはもう少し調べたい。

以下その3は推測で書いていることが多いので読み飛ばしてもらって結構である。

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旧笹川邸が建築された時期は江戸時代後期になる(新母屋を除く)。江戸時代250年間は小氷期と言われ現在より2から3℃以上寒かったと言われている。よって江戸時代の終わりに建てられた建築は、鎌倉時代から引き継がれた「夏をむねとするべし」の家造りから、寒さを凌ぐ家造りに向かっていたのではとおもわれる。夏をむねとすべしの代表的な民家は「箱木千年家」当建物が有名で、家内の過半が土縁か土間になっており、夏の酷暑対策として窓が少ないのが見て取れる。

ウキペディアから。内部は薄暗く窓が小さい。まるで蔵のよう。

一方冬をメインに考えた家の具体的な違いは、大地から浮いた1階の床と2階建の家が多くなってきたことがその表われと思う。2階建の2階は部分は今の建築でも暑いし、屋根が茅葺きで分厚い民家であっても1階より多少温度があがる。また、安定した政治により城下町も発展して町家が2階建になり狭い敷地でより多くの空間を確保したかったとおもわれる。

旧笹川邸にその傾向がみれる。

大正時代に建築された新母屋

江戸時代後期の建築

旧笹川邸は江戸後期(但し江戸後期に火災での再建であるから江戸初期の建築がモデルと思われる)に建築されているが、上のピンクの所だけ大正時代に建築されている。そのピンク部分だけが明確な2階建となっており、江戸時代に建築された部分は平屋建に小屋裏部屋を一部にもつ建て方である。その小屋裏部屋は女中部屋や子供部屋しかなく、夏季は環境的には不利な空間(暑くなる)であったためと思われる。

ところが大正時代に建てられた新母屋は2階が、当主・主人が寝られる空間となっている。つまりこの建築が影響を受けた(大正から50年~150年前)江戸時代のころの夏季は、それ以前の時代より暑くなかったので2階が利用しやすくなった。その建築がようやく町家だけでなく地方のお金持ちにも認知されてきたと思われる。

ここでちょっと思いだしてもらいたいが、

提言13 「日中の通風(風通し)では室温は下がらない」

で申し上げた条件の

1.大地が露出した部分を内包した建物(三和土を持つ空間)

2.空間的熱バッファーをもつ建物(高い天井)

3.材料的熱バッファーをもつ建物(土壁、畳など)

4.完全な日射遮蔽(屋根の大きな出と簾など)がある建物

のうち、1と2が無い建物が新母屋(大正時代)になる。

この事から真夏だけを重視した建物でないことがわかる。

一方新母屋と同じ大正時代に建てられた「て・こあ」も新母屋と同様で気候が江戸時代から少し温かくなっていた明治時代から50年ほど経った建築物。各地域・工法も発展し2階も積極的につかう建て方である。これはその1で申し上げたとおり住宅建築は時間のずれがあるので、多分・・・江戸時代後期のころの家の作り方と、明治から昭和に掛けて猛暑が多くなってきた(夏季の対応)ころの建物の2つの特徴が混じっているのではないかと思う。この建て方は昭和の戦後まで続いている。

また1の家の中で大地の露出が消えて事は料理法の変化も大きい。
家は食べる事と寝ることが主である。その主である食事方法と調理方法が変化した場合家造りにも大きな影響を及ぼす。寒いころの煮炊きは出来るだけ囲炉裏を中心とした食事方法であったと思われるが、気温が上がるにつれて火を使う所と食べる所の分離が行われた。分離が進むとカマドに煙突が据え付けられ更に夏の暑さ対策が進む・・・。このように西洋をまねた近代化と共に大きな影響を与えたのが気候の変化で、それが時間的遅れを伴うので今まで重要視されて来なかった・・・と私は考えている。

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